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曹洞宗

宗旨

名称 曹洞宗(禅宗)と申します。
伝統 曹洞宗は釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)より代々の祖師がたが相承(うけつが)れてきた仏法であります。
日本開宗 曹洞宗は今から780年ほど前に高祖道元禅師(こうそどうげんぜんじ)様がわが国に開かれ、4代目の太祖螢山禅師(たいそけいざんぜんじ)が盛んになされました。そのお二方は宗門の父母にもあたるお方ですから両祖大師と申しあげます。
大本山 越前の永平寺(えいへいじ)(高祖道元禅師様ご開創)
鶴見の総持寺(そうじじ)(太祖螢山禅師様ご開創)
本尊 曹洞宗は釈迦牟尼仏をご本尊と仰ぎます。
本尊唱名 南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)
教義 私達は仏の御子であります。しかし日々仏の御心に沿わない生活を繰返していますので反省し懺悔して仏の御子であるという確信に目覚めましょう。 この時初めて帰依の心が強まり毎日の生活が自ら正しく、明るい生き甲斐が感ぜられて世間のお役に立つことを喜ぶようになります。
ここに端坐合掌(たんざがっしょう)して感謝報恩の生活を営み、どんな苦難にも負けない真に安心立命(あんじんりゅうみょう)の日おくりが出来て参ります。
お経 修証義(しゅしょうぎ)、般若心経、観音経、寿量品(じゅりょうぼん)寿量品等の大乗諸経典をお誦みいたします。


正伝の仏法・行住坐臥

曹洞宗は、お釈迦さまより歴代の祖師(そし)方によって相続されてきた「正伝の仏法(しょうでんのぶっぽう)」を依りどころとする宗派です。それは坐禅の教えを依りどころにしており、坐禅の実践によって得る身と心のやすらぎが、そのまま「仏の姿」であると自覚することにあります。

そして坐禅の精神による行住坐臥(ぎょうじゅうざが)(「行」とは歩くこと、「住」とはとどまること、「坐」とは坐ること、「臥」とは寝ることで、生活すべてを指します。)の生活に安住し、お互いに安らかでおだやかな日々を送ることに、人間として生まれてきたこの世に価値を見いだしていこうというのです。

両大本山

大本山永平寺

永平寺・廊下 永平寺

大本山永平寺は1244年、道元禅師が45歳のとき、波多野義重(はたの よししげ)公の願いによって、越前(福井県)に大仏寺を建立し、2年後に永平寺と改められたことに始まります。

深山幽谷の地にたたずむ山門、仏殿、法堂(はっとう)、僧堂、庫院(くいん)、浴室、東司(とうす)七堂伽藍(しちどうがらん)では、修行僧が道元禅師により定められた厳しい作法に従って禅の修行を営んでいます。

 写真左側:仏殿
 写真右側:伽藍を結ぶ階段廊下

【所在地】 〒910-1228  福井県吉田郡永平寺町志比  TEL:0776-63-3102

 大本山永平寺

大本山總持寺

総持寺祖院・山門 総持寺

大本山總持寺は1321年、瑩山禅師が58歳のとき、能登(石川県)の諸嶽寺を定賢律師(じょうけんりっし)より譲られ、これを禅院に改めて總持寺と名づけたことに始まります。

1898年に七堂伽藍を焼失し、1911年に能登から横浜市鶴見へ移りました。なお、旧地は總持寺祖院(そうじじそいん)として再建され、地域の信仰を集めて今日にいたっています。

 写真左側:鶴見の総持寺
 写真右側:能登の総持寺祖院・山門

【所在地】 〒230-0063 神奈川県横浜市鶴見区鶴見2-1-1 TEL:045-581-6021

 大本山総持寺

両祖様

道元禅師(どうげんぜんじ)

道元禅師

道元禅師は1200年、京都にお生まれになり、14歳のときに比叡山(ひえいざん)にて得度(どくど)されました。24歳で仏道を求め宋(現在の中国)に渡ると如浄(にょじょう)禅師のもとで修行に励まれ、「正伝の仏法」を相続されました。

28歳で帰国した後、正しい坐禅の作法と教えをすすめようと『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』を著され、24歳のときに宇治に興聖寺(こうしょうじ)を建立し、最初の僧堂を開いて修行者の養成と在俗の人びとへの教化を始めました。また、仏法の境地と実践を伝えるべく『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』の執筆を続けられ、45歳のときに越前に大仏寺(だいぶつじ)(後に永平寺と改名)を建立しました。

その後も道元禅師は修行の生活を送りながら弟子の育成につとめられ、1253年、54歳でそのご生涯を閉じられました。

螢山禅師(けいざんぜんじ)

螢山禅師

瑩山禅師は1264年(1268年の説もある)、越前にお生まれになり、8歳で永平寺に入り三世義介(ぎかい)禅師のもとで修行を始めました。13歳で二世懐弉(えじょう)禅師について正式に僧となると、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)と名を改め、19歳になると諸国行脚の志をたて、求道(ぐどう)生活に精進されました。

そして35歳のとき、義介禅師の後を継いで加賀国(石川県)の大乗寺住職となり、2年後に『伝光録(でんこうろく)』をお示しになりました。その門下には優れた人材が集まるようになり、曹洞宗が発展する基礎が築かれました。

また、50歳で能登に永光寺(ようこうじ)を開き、そこで『坐禅用心記(ざぜんようじんき)』を撰述されたといわれています。

その後、58歳のとき諸嶽寺(もろおかでら)を寄進されると禅院に改め總持寺と名づけました。1324年、61歳のとき總持寺の住職を峨山(がざん)禅師に譲られ、翌年62歳でそのご生涯を閉じられました。

このページの内容は、曹洞宗公式サイト・曹洞宗ネット(SOTOZEN-NET)より多くの内容を転記しておりますが、一部変更してあります。